ルナリヤ 冒険の日記

ルナリヤが送るフリーダムな冒険日記です♪ (AnGeL 狩猟の日記の続編です♪)

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

25番の伝説 第一章 

※この物語はフィクションです。 実際の個人、団体、事件等には一切関係ありません。

主な登場人物

大阪近鉄ファルコンズ

名前/ボジション/背番号/知っておきたい情報。

・十川雅憲 三塁手 5  この物語の主人公。

・遠藤幸一 二塁手 2  十川の親友。

・茂松茂樹 監督  89  現役時代、打撃の神様と言われたバッター。十川の憧れていた選手。

・綾瀬一丸 遊撃手 7  華麗な守備でチームに貢献する若手選手。

・藤村龍馬 一塁手 1  怪童と呼ばれるパワーの持ち主。しかし、チャンスに貧弱。

・赤川 亮 外野手 16  走守攻3種揃った誰もが認める天才バッター。「真似していいのは赤川だけ。」十川の目標とした先輩でもある。

・川口健一 投手  21  大阪近鉄ファルコンズの大エース。遅い球と針に糸を通すようなコントロールで奪三振と勝ち星を狙う。

・淡口智弘 外野手 6  大ベテランのチーム会長。渋さが光るバッティングで勝負する。

・ジャック 一塁手 8  本名はジャック・ジョンソン。新外国人選手として期待されていたが…。

・犬井雄太 外野手 3  俊足と恐れられた足の持ち主。

・若菜 誠 捕手  27  頭脳プレーの上手い名捕手。

その他
名古屋金鯱ドラゴンズ
・茂木義正 投手  11 ストレート勝負で挑む投手。重く伸びのあるストレートで奪三振を狙う。遠藤の旧友。

時代推定約1985年~2008年

ここは、超満員の野球スタジアム。
ここで1人の男の名前がコールされるのをファンは皆、待ち望んでいた。
「選手の交代をお知らせします!9番・ピッチャー川口健一に変りまして、十川雅憲!9番・十川雅憲!」
その名前がコールされたとたん、スタンドはわき上がった。
「ワー!ワーッ!!」
男の名は『十川雅憲(とがわまさのり)』大阪近鉄ファルコンズに所属するプロ野球選手だ。
9回の裏2アウト満塁。優勝が懸かった大事な試合であり、絶対に負けられない試合でもあった。試合は3-0と相手チームがリード。そんな試合で十川は泣いていた。
大歓声がスタジアムを包み込む。
十川の涙にこたえるかのようにファンは「十川おかえりー!!」っと…。ファン声援で答える。
しかし、彼の涙はこの日やむことはなかった…。

1993年。逆指名ドラフト1位で憧れた大阪近鉄ファルコンズにプロ入りを果たしたエリートの十川は、華やかな1軍で新人王に輝き、その翌年には本塁打王を取った期待の大物ルーキーであった。
チームの4番として活躍されると大いに期待されていた。
当時、チームの会長をしていた淡口智弘(あわぐちともひろ)は「十川のバッティングは全盛期の赤川ほどではないが、それに近いものを持っている。今後の成長が楽しみですね。」とインタビューに答えている。

赤川亮(あかがわりょう)は外野手、1985年に入団。ライトを守る天才の名外野手だった。
「打撃の神様」と言われた茂松監督は「天才は俺じゃない。赤川だよ」と絶賛するほどの持ち主だった。
1990年。当時は4番を定位置に置き、ホームランを打ってもにこりともしない男だった。「あのホームランは理想の打球じゃない。」と良い、喜びをださない。
バットを振らずに三振し憮然とベンチに下がると、「気のない甘い球を打っても意味がない。」言う赤川は野球界きっての賢人だった。
時をさかのぼる事1988年。赤川の入団3年目のある試合。8回の裏、1-0でファルコンズがリード、このまま行けば川口の通算100勝が確実だった。
しかし、そんな大事な試合で、センターを守っていた赤川は痛恨のタイムリーエラー。打ったランナーはランニングホームランで1-1と同点になってしまった。この時点で川口の勝利権利を失ってしまう。
「積み上げてきた川口さんの苦労を台無しにした」その後、自分の打席で決勝のホームランを打つも、彼に笑顔が戻ることはなかった。ホームランに悔し涙を流した。ヒーローインタビューも断り、帰り道のバスで1人バスタオルを頭にかけて泣いていたという。それが、赤川と言う男だった。
そんな打つことにこだわってきた天才赤川の運命を変えてしまった試合がある。
1990年。とある真夏の小雨の試合。赤川が打った球は二塁間に転がった。内野安打にしようと思い、懸命に一塁ベースに走った赤川だったが、結果は内野ゴロ。しかもその時に右足アキレツ腱を完全断裂してしまった。当時赤川はまだ23歳。これが、天才のすべてを変えてしまった怪我である。
この選手生命にかかわる大怪我で、赤川は故障がちになった。

1年近くに及ぶ2軍での生活…。思い通りに動かない右足…。
この言葉が彼の口癖になった。「俺はもう、死んだ人間だ。」と…。
「この足(右足)はもう元通りにはならないだろうし、いっその事、もう片方(左足)も切れて欲しい。そうすれば、身体のバランスが良くなるらしい。それで元に戻るんだったら…。」と、当時選手会長の淡口に語っていた。
1991年それでも懸命なリハビリで1軍に復帰し、開幕戦に先発出場したものの、その10日後の試合で左足肉離れで戦線離脱。
5月には復帰したものの、赤川にかつての姿はなかった。あれほどにも打撃にこだわった男が足を引きづり、グランドに這いつくばった。
赤川は走攻守全てに於いて常に完璧なプレーを目指すのが信条であったが、満足にプレーする事ができなくなったのが余りに不本意だったのか翌年のシーズンでは「俺の野球人生は終わった」「赤川亮という打者はもう死にました」「プレーしているのは僕じゃなく、僕の弟です」「あれは高校生が打っていたんです」などの発言を繰り返し言うようになってしまった。
またこの頃から打撃成績に関しては具体的な目標を掲げないようになり、理想の打球へのこだわりも薄れ、個人成績の目標として挙げるのは「公式戦全試合出場」だけとなった。
インタビューでは「怪我する前は“自分がどこまで成長できるか”と考えると毎日が楽しかった。野球をやってきて、これまで努力した事はない。普通通りの事をやっていただけ。コーチから新しい事を教わっても、すぐ出来た。神様から与えられた素質、天性だけで野球をやっていたのが、怪我で全て崩れ、訳が分からなくなってしまったんです」と語っていた。
1992年。故障がちのシーズンを乗り越え、十川が入団する前のシーズンの時期に赤川はスタメンに復帰。
その時4番の座に舞い戻った赤川は、試合でチームを助ける逆転のホームランを記録した。
ヒーローインタビューでは「はっきり言って、気持ち的には中途半端で入った。前向きに考えるのが難しかったけれど、茂松監督に『チームのために頑張ってくれ』と言われた。それがいい結果で出たんでよかった」
そして、次第に赤川の中で何かが変わった。
「体の悲鳴に耳を貸すのはもうやめよう…。それが俺のプライドだ」そう心に決めたのである。
そこには苦痛に顔をゆがめ試合に出続ける赤川の姿があった。選手生命を脅かす深い傷、しかしどんなに痛もうと監督の茂松に「でられるか?」と聞かれると必ず「出ます。」と答える男。それが今の赤川であった。「4番の指名は全試合に出てチームを引っ張る事。だから俺は体が壊れても試合に出続ける。」彼はそう思い、ホームランを打ち続けた。
傷だらけの4番打者が打つアーチはあまりにも美しい…。
その赤川が決めたプライドは今でも静かに燃え続けている。

1994年十川1年目の春キャンプ。十川は赤川の所に行った。
打撃の極意を教わろうと挨拶に行った。
しかし、挨拶はしてくれたものの、「来た球を打てばそれでいい。」、「綺麗なヒットなんていらない。」、「お前ならきっとできる。」と打撃の極意に関しては詳しく教えてもらえなかった。
十川は赤川さんの研究から始める事にした。じっくり見て、赤川さんみたいに頑張れば、赤川さんみたいなバッターになれるんだと、信じて。
しかし、それは並大抵のものではなかった。
朝誰よりも早くグランドに来て1人で朝練。チーム1の練習量を誇り、早出特打で汗を流すのが日課。練習をこなした後にはマッサージを受け、さらに足回りにテーピングを施して試合に臨み、試合後にも夜遅くまで入念なマッサージを受ける。さらに自宅に帰ってからも深夜遅くまで素振りを行い、時にはバットを抱えて床に就く事もあるほどであるほどだ。
十川はそれを見て唖然した。本当に「練習の虫」のような人がいるとは思っていなかったからだ。しかも、あの天才の赤川さんが?想像もしていなかったのだ。
十川は見よう見まねで、赤川の練習についていく事にした。ここから十川の数々のドラマがスタートした。

続く…。

スポンサーサイト

| 25番の伝説 | 14:28 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT















非公開コメント

TRACKBACK URL

http://angelsyuryounonikki.blog.fc2.com/tb.php/235-2a429df9

TRACKBACK

PREV | PAGE-SELECT | NEXT